カウンセラーの語る死別の体験 うつの経験

千葉県船橋市にあるクライシスカウンセリング専門の相談室のブログです。

その10  げっそりと痩せる

子会社への転籍の命令にも、私は淡々としていたと思います。

 

「負けるが勝ち」というかなんというか・・・「怒り」をあらわにするでもなく、

「不安」にさいなやまされることもなく、比較的穏やかな日々を過ごしていたかもしれません。

 

ある日、会社から「転籍についての説明会」がありました。

そこに出かけていった私は久しぶりにお世話になっていた先輩にお会いしました。

先輩の第一声はひとこと・・・

 

「お前、ずいぶん痩せたな。どこか悪いのか?」

 

「えっ!」と思いました。

自分では全然自覚がなかったのです。

 

食事は普段通り食べているし(人並み以上に食べていた)、何か具体的な体調不良があったわけではなし・・・

 

とても意外な気がしましたが、言われてみると「そうかな」という感じでした。

 

心身の不調は自分自身ではなかなか気がつかないもの。

 

今にして思えば、それが「うつ」の第一歩だったかもしれません。

その9  いきなりの転籍命令

6月のある朝、出勤してみるとオフィスのみんなが集まってひとつの新聞を眺めています。

 

「どうしたんですか?なにかニュースでも?」

 

先輩が無言である記事を指さしました。

 

するとそこには「現在子会社に出向中の社員をすべて子会社に転籍の扱いとする」との記事が・・・

 

私は「出向」という形で子会社にて勤務しておりました。しかし「転籍」しろというのです。

 

子会社に転籍となれば、当然給料もさがってしまうし、福利厚生変わってしまいます。

 

サラリーマンにとって本当に大事件なのに、事前に在籍している親会社からなんの説明もなく、新聞記事にてあたかも「決定事項」として発表されていたのです。

 

記事を見たときは、案外と冷静でした。

 

「うまくやられたなあ」と。

 

「これはだまし討ちだ」「断固抗議する」と怒りを露にする人も多数いましたが、新聞記事がでてきたところで「これは負けだな」と感じていたのです。

 

「親会社と子会社の給料の差額5年分を退職金として先渡しする」という条件もあり、「ここは無駄な抵抗をせずにもらえるものだけもらってしまおう」という腹づもりでした。

 

組合も、結局転籍には反対せず。

「条件闘争」にて会社と交渉するとのこと。

組合の役員も板挟みになり苦しかったと思います。

 

 

 

 

その8 子会社へ出向する

ボチボチと仕事をしていたある日、辞令がおりました。

 

新しく発足された子会社に出向するようにということでした。

 

出向先の部署は清涼飲料水自動販売機の新規開拓担当。

飛び込みをメインに自動販売機の設置先を増やしていく仕事です。

 

出向したと同時に、私はかなり意欲的に仕事に取り組みはじめました。

 

新規開拓担当は長い間希望していた部署であり、出向先とはいえ、自分の希望がかなったのです。

 

出社後、朝8時には会社を出発、飛び込みを一日30軒から40軒くらいはこなしていたでしょうか。

 

商品パンフレットを入れたカバンだけをもち、オフィスやら商店街やらを一日歩きながら訪問します。

 

帰社後に見込み客の整理をしたり、企画書を作成してみたり・・・

 

体力的には大変で忙しい毎日でしたが、気持ちに張りがあり、充実した日々を送っておりました。

 

一生懸命やっていれば営業成績も自然とあがってきます。

 

妻との死別後、やっと充実した日々がめぐってきたことを感じていました。

 

ところがある日、予想もしていなかった大きな事件がありました。

 

それはサラリーマン生活を一変させる出来事でした。

 

 

その7  反射の鈍さ 反応の遅さ

話は少しさかのぼります。

 

妻を亡くしてひと月ばかりしたときでしょうか。

職場に復帰することになりました。

 

会社が親切に配慮してくれて、それまでの繁忙な部署から、時間の自由がきき定時には帰れる部署に配置換えとなりました。

 

朝、出勤していてぼおーっとしていることが多くなりました。

 

コーヒーメーカーからコーヒーを淹れ、机に座っていてもぼーっとしてしまう。

「おーい」と呼ばれても、すぐには返事ができない。

 

今一つ反射神経が鈍ったというか、反応が遅いというか・・・・

 

「いつもボーっと座っている」ということで上司の評価はさんざんでしたが、今にして思えば、妻の死後ひと月たって、知らず知らずのうちに疲労を溜めていたのかもしれません。

 

うつのばあい、まず身体の不調から現れることもあるそうです。

 

耳鳴り

 

頭痛

 

複数

 

肩こり

 

腰痛

 

などなど

 

その症状の現れ方は人それぞれです。

 

今にしておもえば、こうした「反射の鈍さ」とか「反応の遅さ」などが最初のうつの兆候だったかもしれません。

 

もっとも私はそんなことなど思ってもみなかったのですが。

 その6 月に2回の墓参り

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妻の一周忌が終わるまでは、よく墓参りに行っておりました。

 

2週に1回くらいでしょうか。

今考えれば、結構マメに通っていたと思います。

 

お墓のあるお寺は、ちょっと郊外というか山の中にあります。

空が高くて空気が澄んでいて、そんな空気にふれるのが気にいっていたのでしょう。

しみじみと物思いにふけるというよりも、開かれた場所で風に吹かれているのが心地よかったのかもしれません。

 

1年くらいたってからでしょうか。

 

「もういいかな」と思えるときがありました。

何か吹っ切れたというか、腑に落ちたというか・・・

 

それ以来、自然とお寺やお墓からは足が遠のきました。

 

ちょうど、新しい生活にも慣れて、落ち着きを感じ始めたからでもあります。

 

「まあ、やっていけるかな」

 

そんな気持ちにもなってきました。

 

「喪に服する時間」をどう過ごすかはひとそれぞれだと思います。

 

お墓参りもよし。

 

仏壇にお線香をあげてあげるもよし。

 

空を見上げて故人を想うのもよし。

 

ちょっとの間「ほっ」とできたり、短い時間に夢中になれるものを見つけたり・・・

 

自分なりの「儀式」があればいいようです。

 

「自分だけのお弔いの時間」を積みあがていけば、時間が自分を癒してくれるのだと思います。

 

 

 

 

その5 遺品を整理する

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四十九日が終わるまで、妻と住んでいた家はそのままにしておきました。

 

が、もうすでに実家に帰ってきているので、そのまま維持しておくわけにはいきません。ローンも残っていたし、「住んでいない家のローンを払い続ける」ことは経済的にも大きな負担となってきていました。

 

結局、家は処分しなければなりません。

 

そのために、家財道具の一切合切を処分する必要がありました。

 

部屋の灯り

鏡台

テーブル

食器棚

書籍

などなど

 

すべてを処分して、部屋がからっぽになったときはさすがに胸に迫るものがありました。「夫婦の思い出」も一緒に処分したような気分だったのです。

 

でも、今にしておもえば、それでよかったのだと思います。

 

遺品を処分したときにはいろいろ思うことがありましたが、あのとき思い切ったからこそ、「妻の死」という現実を受け入れることができたのであるし、新しい生活を始めるふんぎりをつけられたのだと思います。

 

遺品はすべて処分するのではなく、なにか大切なものはひとつかふたつは残しておかねばならないそうですね。

 

私が残したものは、写真と妻のサングラス。そして妻が持ち歩いていたカバン。

今ではほとんど遺品を眺めることはありませんが・・・

 

 

 

 

 

 

その4  子供の夜泣き

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当時、子供は3歳と1歳でした。

 

3歳の長男は昼間は保育園に行きます。

毎日、保育園の入り口で大泣きしていました。

 

今までとはガラリと環境が変わってしまう。

優しかったママにはもう会えない。

 

長男にとって大きなストレスがかかっていたと思います。

 

私も、仕事に明け暮れた生活が一変しました。

 

当時毎日定時退社し、毎晩、長男と次男を寝かしつけておりました。

寝付くまで、添い寝して絵本を読んでやるのです。

 

そんなとき、長男が突然泣き出します。

 

「ママにあいたいよぉ」

 

子供に泣かれるのが、何よりも辛かった。

なんとかしてやりたくとも、どうにもできないのですから。

そのまま寝付くまで傍にいてやることしかできなかったのです。

 

当時、私の両親も、義理の父母も、義妹夫婦も、私の親戚や友人たちまでがみんな子供二人に目をかけ声をかけてくれました。

 

「ママはいなくなったけど、周りの大人たちはそのまま残っている。」

「そして自分をかわいがってくれる」

 

こうした安心感は息子たちにあったのだと思います。

それが大きな支えになりました。

 

そんな息子たちも今は20歳と18歳。

よく笑い、よく食べ、よく遊んでいます。

 

あの頃は確かに辛かった。

でも子供なりに死別の悲しみを消化し、乗り越えてきたのだと思います。

 

時間はやはり大きな薬になります。

それ以上に周囲の大人たちのサポートが大きかった。

 

特別なことをするのではなく見守るだけでいいのです。

たとえ片親でも周囲の大人たちが暖かく見守っていれば子供はしっかり育ちます。